始祖 丸目蔵人佐
肥後国八代郡八代(熊本県八代市)に生まれる。
弘治元年(1555年)16歳 初陣で武功を挙げ、丸目の姓を与えられる。
永禄元年(1558年)19歳 上洛。
新陰流の流祖である上泉伊勢守信綱(上泉伊勢守秀綱、武蔵守信綱とも)に師事する。
上泉伊勢守が将軍足利義輝の前で剣技を披露した折には、蔵人が打太刀を務めている。
(通常、打太刀役は仕太刀役より上手の者が務めるのが一般的である。)
永禄十年(1567年) 信綱から「殺人刀太刀(せつにんとうたち)」「活人剣太刀(かつじんけんたち)」の印可状(免許皆伝)を授かる。
信綱の死後 師の逝去に落胆した蔵人はますます鍛錬に励み、ついに「新陰タイ捨流剣術」を創始。これは、新陰流にインドの摩利支天の法や、日本の超古代(イザナギ・イザナミ)に始まる武の道を融合させたものであった。のちに中国武術の長所を取り入れた総合武術としての完成を見たことで、流派の名称を「兵法タイ捨流剣術」と改める。
晩年 徹斎と号し、切原野(熊本県球磨郡錦町)で晴耕雨読の穏やかな隠居生活を送った。
書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったという。また剣術以外にも槍術・棒術・杖術・薙刀など数々の武具を使いこなす、あらゆる分野を極めた実に多彩な人であった。
寛永6年(1629年) 死去。法名は雲山春龍居士。
墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山に現存している。
丸目家現当主は、十三代 丸目 裕之氏。当流の顧問も務められている。
【蔵人 最後の得物】
当流十三代 山北竹任と丸目家十二代 丸目千之助氏
慶長十年。蔵人佐の同門で先輩の疋田文五郎、大阪城に没。七十九歳。
翌十一年。柳生石舟斎の訃報届く。七十八歳。
十三年。奈良の宝蔵院胤栄が亡くなったという悲報。八十七歳。
身辺とみに寂しさをおぼえる蔵人佐は、七十歳を迎えて隠居を願い出、
一武切原野の原野を賜わり法体となり『徹斎』と号して人吉の城下を離れた。
見渡す限り荒涼とした茅原。
得物を刀から鉈にかえた。
これが丸目家に伝わる丸目徹斉、最後の得物である。
「鉈」というより反りや形状は「刀」に近い。
(丸目 裕之氏蔵)
《アクセス》
《道場案内》
【定例稽古】(鏡武道館)
毎週火曜日 20時~22時
見学可能
【短期集中鍛錬】(本部道場 龍泉館および鏡武道館)
不定期 10時~16時
【子ども稽古】(鏡武道館)
毎週火曜日 18時~20時
※クラスにより開始時間が異なります。
【熊本県外】
兵法タイ捨流関西支部(大阪)
稽古会(自主稽古)
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香港兵法タイ捨流(Hong Kong, China)
【人吉球磨兵法タイ捨流保存会】(青井幼稚園)
第2・第4木曜日 19時~21時
見学可能
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